#(
「なぜか今、中森明菜 §0」の続きの記事です。敬称は略します)
§1 初期──「セカンド・ラブ」の時代──
中森明菜が1982年5月に「スロー・モーション」でデビューした当時は、さほど大きな話題にはならなかったと記憶しています。この年には他の有力男女アイドルも次々とデビューしていたこと、「スロー・モーション」(詞:来生えつこ、曲:来生たかお)という曲自体、堅実なアイドルポップスの佳曲なのですが今ひとつ地味であったことが原因だと思われます。
中森明菜が大物の片鱗を見せたのは2曲目のシングル「少女A」だったと思います。この曲は音楽的にも、売り上げ枚数から見ても、決して代表曲とは言えません。しかし、分かりやすいメロディとテンポの良さと歌詞のインパクトを兼ね備えていたので、中森明菜の名前を大衆に浸透させるには適した曲だったと言えるでしょう。
1982?11???3?Ρ?????76.6??夲???????????DESIRE????????????κ????С?????????γ???(?)???????????????????λ???17Ф???????????????????????????礦
私は、「スローモーション」から1984年の「サザン・ウィンド」までの中森明菜を“初期明菜”と呼んでいます。この時期の特徴の一つとして、曲ごとに多彩な歌唱表現をしていたことが挙げられるでしょう。実際、何も知らない人が「少女A」と「スローモーション」を聞き比べたら、違う歌手だと思う可能性すらあると思います(※注2)。スロー、ミディアムテンポな曲とテンポが速い曲を交互にリリースしていたことからも、製作サイドの「多様な明菜を見せたい」という明確な意思を感じます。
ただし、この時期の曲は明菜本人にとって少々負担だったかも知れません(勿論、本人に聞かないと断言できませんが)。TBS系「ザ・ベストテン」の生放送で「セカンド・ラブ」を歌おうとして声が出なくなったという有名な事件が起こったのもこの時期でした。私の記憶では1983年の1月頃です。風邪を引いていたようで、途中の高音部を出せずに、生放送中に見事に泣き出してしまったのです。音域に余裕があれば、調子が悪くても悪いなりにまとめることができるのですが、おそらく「セカンド・ラブ」は明菜の能力ギリギリのところで歌われていたのでしょう。
「ザ・ベストテン」での事件は、アイドルとしては決してマイナスではなかったと思います。泣いている明菜を見て“守ってあげたいモード”に突入した青少年男子は少なからず存在した筈で、その意味ではアイドルとしてはプラスだったとさえ思えます。しかし、後年の路線変更から判断するに、この事件は明菜の歌唱力に対する製作側の認識に若干暗い影を落としたのではないか、と推測するのです。
とは言え、「セカンド・ラブ」以降もしばらくの間は、デビュー当時の路線が守られました。しかし、「十戒(1984)」を聞いた私は、少なからずショックを受けました。今後、中森明菜に注目するのを止めようとさえ思いました。「十戒(1984)」は“アイドルとしての”中森明菜の最大の転機だったと思います。何がそれほど変わったのか、次節で詳述します。
【注】
※1 4度進行とは、和声進行の技術の一つです。ある和音からルートが完全4度上(つまり完全5度下)の和音に移ることをmotion of 5thと言います。このmotion of 5thを繰り返して得られる和声進行を4度進行と呼びます。主調がBmである「セカンド・ラブ」のサビ部分「抱き上げて連れてって時間ごと」を例にとると、Em→A7→D→GM7のような感じで進行しています。より詳しくは、
作曲の仕方、四度進行についてをご覧ください。
※2 レコードでの「スローモーション」と「少女A」の声が余りにも違うので、「実は『スローモーション』はテープの回転数を落として録っていた」との風説もあるようですが、個人的には根拠薄弱だと感じます。
posted by D Slender at 00:16
| ☔
|
音楽・芸能